コロナ禍があぶり出した課題

2022年5月20日

小林慶一郎(慶應義塾大学経済学部教授)

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.9 - 2022年4月号 掲載 ]

~管轄的思考と倫理的不整合~

マクロ経済学者である筆者は、過去2年間、専門外の新型コロナウイルス感染症対策の政府分科会で政策形成の議論に加わってきた。そこで見えてきた政策当局のガバナンスの問題は、経済政策の政策形成過程に共通するものがあり、たいへん興味深い。政策当局の陥りがちな問題点は「管轄的思考」と「倫理的不整合」という2つの言葉にまとめられるように思う。

管轄的思考とはいわゆる縦割り思考のことである。専門的な事項は「自分の管轄外である」として専門家に委ね、思考停止に陥ることを指す。コロナ対策では、海外からの入国を制限する水際対策を強化するかどうかという判断において、管轄的思考の弊害が現れた。2020年末にコロナの変異ウイルスが拡がったとき、行政は、政策変更には感染症専門家の判断と助言が必要だとして積極的に政策を変えようとはしなかった。一方、専門家は、データがまだ足りないからと判断を留保した。結果として、ボールが間に落ちるかたちになり、水際を強化しないまま時間が経ち、変異ウイルスの国内感染の拡大がもたらされた。こうした縦割りの弊害はいたるところに見られた。多くの指摘がある通り、危機時には、組織間の役割分担を超えた意思決定と資源配分を行う「司令塔」が必要である。

「倫理的不整合」は筆者の造語だが、パターナリズム(家父長的な権威主義)に陥りがちな政策当局者の精神構造をあらわす言葉である。

通常、人間は、他人の思考を推し量る力という意味での「合理性」を身に着けている。政策当局者は「自分が国民の立場だったらどう考え、行動するだろうか」と考える。国民も、政策当局者の意図は何か、と相手の立場に立って考える。政策当局者も国民も、同じ「合理性=他者の思考を推し量る力」を持った平等な存在なのである。

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それに対して、政策当局者がしばしば陥りがちなパターナリズムとは、愚かな国民を賢明なエリートが領導する、という思想である。そこにはまず「国民は、自分達=政策当局者ほどものを考えない」という暗黙の前提がある。パターナリズムのベースにあるのは、国民は愚かだという先入観なのである。このような先入観の下では、政策当局者は「政策に対して国民がどのように考えるか」ということを真剣に考えない。たとえば「国民の消費は『消費関数』によって機械的に決まる」と決めつけて、「財政政策が変わったら国民は『将来の増税に備えて、消費を減らそう』と考えるので、消費関数のかたちが変わるのではないか」と深く考えないのである。つまり、政策当局者はパターナリズムに陥ると、他者の思考を推し量る力という合理性を失う。このような合理性の喪失を「倫理的不整合」と呼びたい。政策当局は「自分が国民の立場だったらこう考えるが、(愚かな)国民は自分と同じようには考えないだろう」と想定するわけだから、この想定は不整合的である。また、国民を愚かであるとみなす点で、この想定は非倫理的である。この意味で、国民を愚かだとみなす政策当局者は倫理的不整合に陥っている。

政策当局者が倫理的不整合に陥ると、当局者が想定もしなかった国民の反応が起きて、政策が失敗することがある。不良債権処理の先送りはその例といえよう。

1990年代のバブル崩壊で大量の不良債権が発生したが、不良債権の償却処理は即座に進められず、何年も先送りされた。当時の銀行行政は、一部のエリートが護送船団方式で銀行システムを維持管理する典型的なパターナリズムだった。彼らは、不良債権処理の先送りは、銀行システムを破綻させないためにやむを得ないと考えた。銀行業界の秩序を平穏に維持していくためには、銀行の財務健全性を傷つけない範囲で、段階的に、不良債権処理を進めるしかない、と判断した。しかし、銀行行政の当局者は、「銀行業界の外の消費者や企業の反応がどうなるか」について真剣に想像力をはたらかせることができていなかった。

実際には、不良債権が処理されずに膨張していく中で、国民は「どの企業が不良債権化しているのか分からない」「自分の取引相手の企業や銀行が、いつ破綻するかわからない」という不安と相互不信に苛まれ、経済活動全般が10年間も萎縮した。これは銀行業界の外側で発生した巨大な経済コストである。政策当局が合理性(国民の思考を推し量る力)を持っていたら、おそらく軽減できたコストである。

同じタイプの失敗が、コロナ禍で続いたPCR等の感染症検査の抑制的な対応である。医療政策や公衆衛生の政策当局者にとって、感染者を効率的に発見して治療につなげることが感染症検査の目的である。したがって、なるべく感染している確率の高い対象者(濃厚接触者など)に検査対象を限定するべきだと考える。この立場からは、無症状の一般市民にランダムに検査しても、感染者を発見する確率は低いので、それは検査の時間と資源の無駄遣いだ、という判断になる。これが、検査対象を絞り込み、検査件数も抑制するという政策につながった。

その結果、国民は検査が少ないことによって「誰が感染しているか分からない」という相互不信に苛まれ、社会経済活動の必要以上の収縮が起きたと考えられる。国民の思考過程を推し量ることを政策当局が軽視したために、感染症検査の抑制がもたらす社会経済的コストが過小評価されたと言える。

検査の不足は、感染の不確実性を高め、国民の不安を高めて行動を委縮させることで、社会に大きなコストをもたらす。政策当局が「国民の思考を推し量る力」という合理性を持てるかどうかが問われている。コロナ禍があぶり出した管轄的思考と倫理的不整合という政府のガバナンス上の課題に、正面から取り組むことが必要である。

小林慶一郎氏

小林慶一郎
慶應義塾大学経済学部教授
東京大学大学院修了後、通商産業省(現経済産業省)入省、経済学Ph.D.取得(シカゴ大学)。一橋大学経済研究所教授、慶應義塾大学経済学部教授、東京財団政策研究所研究主幹を経て、現職。専門はマクロ経済学、経済動学。キヤノングローバル戦略研究所研究主幹、新型コロナウイルス感染症対策分科会構成員など兼職多数。著書に「日本経済の罠 なぜ日本は長期低迷を抜け出せないのか』(共著、2001年日本経済新聞社、第44回日経・経済図書文化賞および第1回大佛次郎論壇賞奨励賞受賞)「ポストコロナの政策構想」(共著、2021年日本経済新聞出版)など

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