日本銀行の新たな総裁に植田和男・東大名誉教授が国会で承認された。1998年から7年にわたって日銀審議委員を務め、金融政策を熟知する、日本を代表する高名な経済学者である。これまで日銀総裁に民間から登用された例はあったが、学者が就任するのは初めてだ。総裁を支える新副総裁には氷見野良三・前金融庁長官と内田真一・日銀理事が就任し、「植田日銀」が正式に発足した。
欧米諸国がエネルギー価格の高騰などによる物価上昇に対応し、金融引き締めを強める中で、日本の金融政策は大きな岐路を迎えている。そして植田総裁に課せられた責務は、アベノミクスの下で長年続いてきた異次元の金融緩和をどのように軟着陸させるかに尽きる。金融市場との対話を緊密化させるのは当然だが、国民に対する分かりやすい情報発信も問われることになる。
今回の日銀総裁選びをめぐり、自民党の有力幹部は「アベノミクスに向き合う姿勢が重要だ。少なくともアベノミクスを否定するような人物では困る」と語っていた。これまで日銀総裁には、財務省出身者と日銀出身者が交互に就く「たすき掛け」が続いてきた。このため、多くの金融関係者は「財務省出身の黒田氏の後任には日銀出身者が有力だ。それならば黒田氏を副総裁として支えてきた雨宮正佳氏が適任だろう」と予測していた。
この自民党幹部も「黒田氏を支えた雨宮氏ならば、自民党から異論は出ない」と断言していた。だが、この幹部は同時に「どうも雨宮氏は、政府による総裁就任への打診を固辞しているようだ。政府も雨宮氏に新総裁を引き受けて貰える目途は立っていない」とも打ち明け、雨宮氏が最有力候補とされていた日銀総裁選びの難しさを語っていた。
昨年7月の参院選で勝利を収めた岸田文雄首相は、ただちに次期日銀総裁選びに着手した。候補者として挙げられたのは当初、20人を超えていたという。この中には自民党が推す雨宮氏のほか、日銀が推薦した中曽宏前副総裁も含まれていた。そして首相官邸が推す候補として、金融界出身の女性も名を連ねていたとされる。さらに大手メガバンクのトップ経験者も入っていた。関係各所から集められた候補者名簿をもとに首相側近らが中心となって絞り込みを始めた。
この選考を進める過程で政府は、雨宮氏に総裁への就任を打診したようだ。政府関係者は「正式な就任要請ではなく、あくまでも意向の確認のようなものだ」とする。これが一部報道にもつながったが、自民党幹部が明かすように雨宮氏は打診を固辞し、「アベノミクスによる金融緩和を進めてきた日銀執行部の私が、その見直しを手掛けるのは客観性に欠ける。市場の信任も得られないだろう」などと辞退の理由を語ったという。
こうした中で最後まで残ったのが植田氏だった。財務省に近い麻生太郎自民党副総裁は「学者は組織の動かし方を知らない。学者を総裁に就けるのなら、政府や日銀の動かし方を知っている人物を副総裁に就けるべきだ」と岸田首相に進言し、その通りの布陣となった。麻生氏は自身が財務相当時、長く仕えた財務官僚を総裁候補に推したが、「二代続けて財務省出身者が総裁に就くのはバランスを欠く」との政治判断で早々に見送られた。
植田氏は積極財政派として知られる。日銀審議委員時代の2000年8月には当時の日銀執行部がゼロ金利を解除する決定を下した際、数少ない反対票を投じたのは有名だ。植田氏を知る政府関係者は「金融理論に通じているのはもちろんだが、それが実体経済に対してどのような影響を与えるかまで見通せる経済学者だ」と高く評価している。
植田氏が日銀の金融政策をめぐって今後、難しい舵取りを迫られるのは間違いない。ここで考えたいのは日銀の独立性と政府との政策協調のあり方である。
岸田政権は自民党との関係を考慮し、アベノミクスを否定する人材は候補から排除した。ただ、日銀法第3条第1項では「日銀の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない」として政府だけでなく、与党からの独立も確保するように定められている。さらに同法5条第2項では「日銀の業務運営における自主性は、十分配慮されなければならない」と配慮義務も盛り込まれている。中央銀行が政府から独立した存在でなければ、その中央銀行が発行する通貨に対する信任が損なわれる恐れがあるためだ。
しかし、現在の日銀による大規模な金融緩和は、政府が発行する国債を日銀がほぼ無制限に購入することを前提としており、これで長期金利を半ば強引にゼロ近くに抑えてきた。一方で金利調節機能が失われたばかりでなく、大量の国債発行が続くなどで財政規律も大きく毀損してしまった。コロナ禍で経済を支えるための財政支出の拡大は先進国共通だが、日本だけがいまだに財政支出を縮小できないのはなぜか。金融緩和が財政を悪化させ、それが国民の将来不安を招き、自立的な経済の好循環を確立できず、長期にわたって漫然と金融緩和が続いている状況にある。いわば日本経済は「金融と財政の悪循環」に陥っていると見るべきだろう。
すでに日銀が保有する国債は、2022年末で564兆円と国債発行残高の実に半分を占める水準に達している。黒田氏が異次元緩和を率いたこの10年で、日銀の国債保有残高は4倍超にまで膨らんだ。政府が財源を確保するために国債の発行額を増やし、日銀がその国債を積極的に購入して政府の資金繰りを支える事実上の「日銀ファイナンス」ではないかとの懸念も市場では台頭している。
こうした中で新たに日銀総裁に就任する植田氏は、金融政策だけでなく、政府の財政政策に対しても厳しく注文を付ける必要がある。日銀法第4条には「日銀の金融政策は、経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるように政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と謳っている。日銀が政府に対し、経済政策をめぐって意見具申することは当然の職責なのだ。積極財政派が多い自民党の反発を受ける覚悟も問われることになる。
金融業界関係者は「植田氏は学者として自らの理論に忠実な人だ。自分で必要だと判断すれば、躊躇なく金融緩和の修正に乗り出すだろう」と期待を寄せる。日銀が政府から独立して政策判断しなければ、金融の正常化も達成できない。植田氏はその重い役割を担っていることを忘れてはならない。
井伊重之Shigeyuki Ii
産経新聞論説副委員長、経済ジャーナリスト
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。