ここ数年で、国際環境が一変した。米中対立は、技術覇権競争から国際秩序の主導権を巡る競争へと拡大している。2022年には、ロシアがウクライナを侵略し、3期目に入った中国の習近平政権は権力の個人集中を進め、台湾有事の懸念が強まった。ロシアは、経済制裁の不徹底、イラン・北朝鮮等からの武器供給などに支えられ、ウクライナの戦況が膠着し、欧米の支援疲れが見られる。昨年はイスラエル・ハマス戦争が始まり、ガザの人道状況悪化が西側の結束を揺るがせている。中東での緊張拡大は、米国の軍事余力を低下させ、他地域における抑止力を低下させる懸念がある。サイバー空間では、平時・有事の区別なく各種の攻撃や世論操作が常態化している。
新興国が経済発展を遂げ、主要7カ国の世界経済に占める割合は4割程度に縮小した。第二次世界大戦後に構築された国際秩序は、今日、紛争を抑止する力を大きく低下させている。世界貿易機関は、時代の変化に合わせたルール改定ができず、中国の国家資本主義の拡大を許し、今では紛争処理機能が停止している。米国は、強制技術移転や外資差別等の不公正な慣行を理由とする対中関税を賦課し、安全保障上の懸念に基づき中国製通信機器を排除し、中国からの対内投資規制を強化した。これらはバイデン政権に引き継がれ、先端技術の対中移転規制、供給網からの人権侵害の排除などに拡大した。中国はこれに対抗し、国産化を加速し、各国の対中依存を武器化する動きを強めている。一方、中国の反スパイ法改正は外国企業に不安を与え、同国の経済停滞と相まって対中投資が激減した。
こうした地政学的な変動は、生成AIの急速な進化と普及、気候変動問題などと相まって、予見可能性を大きく低下させ、企業のリスク管理を難しくしている。
日本政府は、「国家安全保障の対象が、経済、技術等、これまで非軍事的とされていた分野にまで拡大」しているとの認識を示し、国家安全保障戦略に経済安全保障の考え方を新たに盛り込んだ。経済安全保障とは、経済的な手段により国や国民の安全、繁栄を守ることである。具体的には、想定する脅威やリスクに応じた対処が必要になる。例えば、経済的威圧。ほかの国から自国が不利になるような経済措置を導入され、撤廃して欲しいならこうせよ、という圧力をかけられる。尖閣諸島沖の漁船衝突事件の直後、船長の釈放を要求する中国政府は、レアアースの対日輸出を停止した。中国は、それを梃子に日本の磁石メーカーを誘致し、中国企業による国産化を進め、昨年末からはレアアースを使った高性能磁石などの製造技術の輸出を禁止するに至った。昨年の日本産水産物の対中輸入禁止は記憶に新しい。
これに対し国としてどうするべきか。一つは、基幹インフラや供給網の脆弱性を解消する自律性の向上であり、もう一つは、研究開発強化などによる技術・産業競争力の向上や技術流出の防止などによる優位性ひいては不可欠性の確保である。さらに、そのような事態を未然に防ぎ、また、各国が協力して対処できるよう、基本的価値やルールに基づく国際秩序の維持・強化が重要になる。
企業は、地政学リスクの高まりに備え、また、輻輳する各国の規制を遵守するため、情報収集分析の体制を強化する、供給網を隅々まで把握しその脆弱性を一つ一つ克服する、データや技術の漏洩を防ぐなど、コストのかかる対応に追われている。しかし、ピンチは同時にチャンスをもたらす。
経済安全保障推進会議「経済安全保障の推進に向けて 」(2021.11.19)
中国リスクの高まりは、日本の安全性、信頼性の価値を高めた。世界の投資資金が中国から日本にシフトしている。半導体産業では、日本の部素材や製造装置の強さに対する米欧の期待と、政府の思い切った支援策の迅速な展開によって、国内投資が空前の活況を呈している。もちろん、日本の財政余力は限られており、補助金競争では不利になる。企業が高額報酬を提示する外国企業に社内の優秀な人材を奪われないようにすることも容易ではない。さらに産業のパラダイムが変わる中で高い付加価値を獲得するには、技術力を新たなビジネスモデルや収益力に結びつけるイノベーション力、特に知財の戦略的管理や国際ルール・標準形成への取り組みがこれまで以上に求められる。課題は多いが、冷戦後の国内空洞化を逆転させる千載一遇の好機が到来しており、これを日本の再生に結実させたい。
日本の自律性・不可欠性を高める取り組みは、今後、さまざまな分野に広がっていくことが想定される。供給網にどのような脅威があるのか。上位企業が技術を管理していても下位企業から流出すれば、日本の優位性は失われる。流出を防ぐだけでなく、新しい市場が生まれ投資が拡大しなければ、技術の優位性を守れない。こうしたことについて、官民の認識を揃え、連携を強化することが喫緊の課題である。
東京大学公共政策大学院では、「経済安全保障と企業のリスク管理」に関する社会人講座を開設し、産官学の講師を招いて地政学リスクの捉え方や企業のリスク管理事例を学びながら率直な議論ができる場作りに取り組んでいる。このような場が官民連携の一助となることを願っている。
宗像直子Naoko Munakata
東京大学公共政策大学院教授
東京大学法学部卒業,ハーバード大学経営大学院修士課程修了。1984年通商産業省入省。米国ブルッキングズ研究所客員フェロー、製造産業局繊維課長、通商政策局通商機構部長、貿易経済協力局長、内閣総理大臣秘書官、特許庁長官を経て2019年退官。21年より現職。現在、日本商工会議所知的財産専門委員会委員長。