現在、「人的資本経営」という考え方が急速に浸透してきている。「人的資本経営」とは、経済産業省によると、「人材」を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方と定義される。言い換えると、企業等の組織が、その内外に抱えている人材を資本と考えて投資をし、人材の価値を最大限活用することで、企業の価値を最大化していく経営のあり方である。
なぜこうしたことが言われるようになってきたのか。また、なぜこれまで急速に大きな議論になっているのか。考えてみると、日本企業は、これまでも人や人材を大切にしてきたのではないのか。「わが社の根幹は人である」と豪語する経営者も多い。また、過度の関心が、法的コンプライアンスの側面、つまり人的資本とその経営に関する情報開示に集中しているように思う。
私は、人的資本経営という議論で本当に重要なのは、現在の日本企業の人材の確保や活用の仕方が限界に来ており、今、改革をしないと、少子高齢化の進むわが国の企業が、他国に比して、どんどん後れをとるという点だと思っている。「人的資本経営」という議論が急速に進んだ背景には、人手不足や若手の離職・転職増加の下で、この言葉によって、「このままではダメだ」というメッセージが株主や投資家からもたらされたという危機感があるのではないだろうか。
実際、わが国の企業では、人材の活用が本当に効果的に行われているのかに疑問をいだかせる統計的な証拠がいくつか出てきている。例えば、少し前から言われているように、わが国の就業時間あたりの付加価値生産性がOECD加盟国38ヵ国中30位(生産性本部、2022年)にあるという結果である。「就業時間あたり付加価値生産性」とは、労働者が1時間働いて創出する付加価値がどれくらいかの指標であり、労働者がどれだけ効果的に価値創造に活用されているかの指標である。また、国際比較調査で、わが国従業員の従業員エンゲイジメントが、対象国129ヵ国中128位の低さ(Gallup社調査、2022年)という結果などもある。
さらに人に対する投資という観点では、日本企業の人材育成投資が他国に比べて、とても低いという結果が出てきている。さまざまな推定があるが、OECDの研究者が丁寧な手法で分析をした結果によると、わが国の企業内人材投資は、OECD各国と比較して、総合的にみて下から数えて2位であり、特に研修などのフォーマルな育成投資の割合が少ないことが示されている(Squicciarini, M., Marcolin, L. & Horvát, P. (2015). Estimating cross-country investment in training: an experimental methodology using PIAAC Data. OECD Science, Technology, and Industry Working Papers)。少し古いが、極めて厳しい結果である。
こうした状況の背後にあるのが、わが国の人事管理のあり方だと考えられる。正直にいって、海外のそれと比較すると、わが国の人材管理のあり方は、とても「時代遅れ」の感がある。賃金決定に、いまだに年功的要素を残している企業は多いし、多くの企業は新卒一括採用という名の下、総合的な能力は高いかもしれないが、入社時点での職業遂行能力が極めて低い人材を確保し、時間をかけて育成している。さらに、若手などに大きなチャレンジを与えたり、成果ポテンシャルの高い人材に賭けたりする人事施策の導入も遅れている企業が多い。また降格や降給などのマイナスのインセンティブを与える人事を行っている企業も少ない。
さらに、最近の変化をみても、いわゆる非正規社員という雇用契約の柔軟性が高い労働者を増やしたが、いまだに非正規社員は短期社員という枠に囚われているため、非正規人材に対する投資(育成その他)は少ないままで生産性も上がらず、賃金も低いのでエンゲイジメントも上がらない。
人材成長への投資で重要なのは、いわゆるリスキリングの促進である。現在技術進歩やビジネスモデルの変化に伴い、新たに必要になった職務にミスマッチした人材が増えている。こうしたミスマッチを解消するために、新たに必要なコンテンツを学ぶための教育インフラを導入し、プラスおよびマイナスのインセンティブを与えつつ、積極的にリスキリングを断行していく必要があろう。また企業は、経営戦略を明確にし、働き手に何を学んでほしいのかをきちんと伝える必要がある。リスキリングの主体は、あくまでも企業なのである。
そして最後がエンゲイジメントの向上である。エンゲイジメントというとしばしば企業と人との繋がりなど、暖かい感情を思い浮かべるが、本当は厳しい感情である。オリンピックで金メダルをとろうとしたり、入学試験に合格しようとしたりするときに示す大きなエネルギー、いわば「必死さ」がエンゲイジメントである。これを高めるためには、ある意味では、マイナスのインセンティブの可能性(メダルが取れない、不合格になるなど)も必要なのである。わが国の企業は、法律の範囲内で、こうした必死さを取り戻すための工夫をしてくことが大切だろう。
人的資本経営を、単に求められる人的資本情報を開示し、法的なコンプライアンスをすればよいという理解で終わらせてはいけない。株主や投資家からの人事管理への改革要請と捉え、改革に果敢に取り組むべきなのである。
守島基博Motohiro Morishima
学習院大学経済学部教授、一橋大学名誉教授
米国イリノイ大学産業労使関係研究所博士課程修了。人的資源管理論でPh.D.を取得後、カナダ国サイモン・フレーザー大学経営学部Assistant Professor。慶應義塾大学総合政策学部助教授、同大大学院経営管理研究科助教授・教授、一橋大学大学院商学研究科教授を経て、2017年より現職。厚生労働省労働政策審議会委員、中央労働委員会公益委員などを兼任。2020年より一橋大学名誉教授。著書に『人材マネジメント入門』、『人材の複雑方程式』、『全員戦力化 戦略人材不足と組織力開発』、『人材投資のジレンマ』(以上、日本経済新聞出版)、『人事と法の対話』(有斐閣)などがある。