東京証券取引所(東証)は日本経済の持続的な発展を目指し、その原動力となる上場会社の企業価値向上を促す施策を実施してきた。その一環として、2023年3月から、上場会社の皆様に「資本コストや株価を意識した経営」をお願いしている。これは、上場企業の経営者の皆様に、中長期的な企業価値を重視する株主・投資者の目線を理解し、意識を向けながら企業経営に取り組んでいただきたいというものである。
契機となったのは、2022年4月に実施した東証株式市場の市場区分見直しである。上場会社が自社の企業価値向上に向けて積極的に取り組み、そうした企業に投資したい投資者が集まるような基盤整備を目的として、クリアなコンセプトに基づくプライム、スタンダード、グロースという3つの新たな市場区分がスタートした。新市場区分への移行は円滑に行われたものの、企業価値向上を支えるという市場区分見直しの目的に鑑みると、移行自体は市場改革のゴールではなくスタートである。そこで、東証では、移行直後の2022年7月から「市場区分見直しに関するフォローアップ会議」を設置し、市場区分見直しの実効性向上に向けた議論を続けてきた。
その中で、日本市場における喫緊の課題として着目したのは、欧米と比べてROEやPBRが見劣りする企業が多いという現状である。日本の企業経営においては、従来、売上げや市場シェア、利益額など、損益計算書が重視されてきた一方で、投資者が重視するバランスシートをベースとした資本効率や資本コストなどはあまり重視されてこなかったことが背景として考えられる。2015年のコーポレートガバナンス・コード導入に象徴される昨今のコーポレートガバナンス改革において、企業は株主・投資者との対話を成長のドライバーとして活用していくことが期待されるが、両者の目線がずれている限り、企業価値向上に繋がる有効な対話が成り立たない。
そこで、改めて上場会社の皆様に、資本収益性や市場評価に対する意識を高めていただき、投資者目線を意識した経営を推進していただきたいという思いから、冒頭に述べた「資本コストや株価を意識した経営」のお願いに至った。具体的には、プライム市場とスタンダード市場の全上場会社に、取締役会レベルで資本収益性や市場評価の現状分析と改善計画を議論し、その内容をわかりやすく株主・投資者に開示するとともに、それをきっかけとした株主・投資者との建設的な対話を通じて、継続的に取組みをブラッシュアップすることをお願いしている。
要請から1年超が経過し、本年6月末時点でプライム市場の約8割、スタンダード市場の約4割の企業が「資本コストや株価を意識した経営」の開示を行うなど、企業価値向上に向けた取組みを進める企業が着実に増えている。海外投資家を含む多くの投資者からも、「企業の対話に対する姿勢が改善した」、「資本収益性や事業ポートフォリオの見直しについて議論する機会が増えた」など、企業の前向きな変化を評価する声が寄せられている。
一方で、対応を積極的に進める企業とそうでない企業の間で、対応状況の差が広がっているという指摘もある。具体的には、①実効的な取組みを検討・開示し、投資者とも対話をしながら自律的に推進している企業、②開示は行っているものの、投資者の期待に応えた実効的な取組みとはなっておらず、改善が期待される企業、③必要性を感じていない、あるいは、リソース不足などを理由として取組みの開示に至っていない企業という、3つの企業群に大別できると考えてい。今後、取組みの実効性を高め、改革を継続させていくためには、それぞれの企業群の状況に応じたアプローチが必要だと考えている。そこで、3月期決算会社を中心とした多くの企業による取組みの開示・アップデートが出揃ったタイミングで東証は、改めて企業の対応状況や投資者等の市場関係者からのフィードバックを取りまとめた。それらを踏まえ、企業の実効的な取組みや投資者との建設的な対話を更に促すための方策を進めてまいりたい。
東証としては、プラットフォーム・プロバイダーとして、企業と株主・投資者の建設的な対話が活発に行われるための環境整備を引き続き進めていきたいと考えているが、マーケットの主役は企業と株主・投資者の皆様である。
企業の皆様においては、求められたから開示するだけ、もしくは、目先の株価対策として自社株買い等の株主還元だけ行う、といった一過性の対応ではなく、投資者からの期待が高まっている今こそ、企業経営の変革を進める好機と捉え、中長期的な企業価値をしかるべきレベルに高めることを目指して、成長投資や事業ポートフォリオの見直しなどの積極的な経営資源の配分に本腰を入れることが期待されるところである。社外取締役の皆様にも、株主・投資者の立場を代弁する主体として、企業の存在価値を存分に高めるべく、積極的に社内の経営陣の背中を押して必要な変革を引き出すことを期待したい。
そして、企業が真に変革を遂げるためには、投資者のエンゲージメントがもう一つの重要なカギとなる。こうした観点から、本年6月に、「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」が公表した「コーポレートガバナンス改革の実践に向けたアクション・プログラム2024」では、機関投資家のスチュワードシップ活動の実質化に向けた課題や今後の方向性が示された。足元では、国内の大手機関投資家において、資本効率を重視した議決権行使基準のアップデートが行われるなど、企業に対する働きかけを強める動きが進んでいるが、引き続き、投資者の皆様には、企業の中長期的な企業価値向上の実現を促すようなエンゲージメントに積極的に取り組んでいただきたい。
上場会社が株主・投資者の目線を踏まえた経営改革に取り組み、それが国内外の投資者の関心や投資資金を引き寄せ、さらに上場会社が取組みを加速させていく。こうした好循環が諸所で生まれ、日本の株式市場の魅力向上、ひいては日本経済の持続的な発展に繋がることを期待している。
青克美Katsumi Ao
株式会社東京証券取引所 取締役常務執行役員
東京証券取引所入所後、上場制度、開示制度、コーポレートガバナンス等を担当。法制審議会会社法制部会 委員、金融庁・東京証券取引所「スチュワードシップ・コード及びコーポレートガバナンス・コードのフォローアップ会議」事務局、経済産業省コーポレート・ガバナンス・システム研究会委員などを歴任。