買収される企業の同意を事前に得ないでM&A(合併・買収)を提案する「同意なき買収」が広がり始めている。日本ではこれまで「敵対的買収」と呼ばれ、買収を仕掛けた側のイメージが悪化し、他の株主から買収に関する賛同が得にくくなるなどの弊害が指摘されてきた。
だが、経済産業省が2023年夏にまとめた「企業買収における行動指針」で、「敵対的買収」は「同意なき買収」に言い換えられた。この指針では企業価値の向上につながるような同意なき買収は、「株式市場の健全な新陳代謝に資する」と積極的に評価し、真摯な買収提案に対しては、提案された企業も真摯に検討するように求めた。
経産省は敵対的買収の悪者イメージを払拭し、被買収企業側の同意が得られていない買収でも、株主利益などの経済合理性で判断すべきとの立場を明確に打ち出した。同意なき買収を決してタブー視することなく、M&Aを通じて上場企業の資本効率を改善して企業価値の向上を図り、ひいては株式市場の活性化につなげる狙いがある。これからはM&Aをめぐる日本企業の意識改革も問われることになりそうだ。
市場関係者が「日本におけるM&Aのあり方を大きく変える契機となった」と口を揃える買収劇があった。ニデック(旧日本電産)が昨年7月、中堅工作機械メーカーのTAKISAWA(旧滝沢鉄工所)に対して行なった買収提案である。TAKISAWA側の同意を得ないままの買収提案であり、当初は提案を拒否された。
ただ、ニデックはその後もTAKISAWA側と対話を続け、提案前株価の2倍という高値の買収価格や買収後の事業計画など、株主利益や企業価値の向上につながると説明。最終的にTAKISAWAの経営陣も買収に同意した。市場関係者は「ニデックは経産省の買収指針を意識していた。数多くのM&Aを経験してきたニデックならではの提案だった」と振り返る。また、ニデックにとっても経産省の買収指針が示される中で、何としてもこの買収は成功させたいとの思いが強かったようだ。
さらに昨年12月には第一生命ホールディングス(HD)が福利厚生代行大手のベネフィット・ワンに対し、被買収側の同意を得ないで株式公開買い付け(TOB)を表明した。これはベネワンの親会社であるパソナと医療関連サイト運営会社のエムスリーがベネワンをめぐるTOBで合意したが、第一生命がそれに対抗するかたちでTOBを表明した。第一生命がエムスリーよりも高値での買収を打ち出したことで、エムスリーによるTOBは不成立に終わった。その後も第一生命は買収価格を引き上げ、今年5月にベネワンは第一生命の子会社となった。
もちろん失敗例もある。業務用プリンター大手のローランドDGは今年2月、投資ファンドの協力を得て、経営陣が自社株を買い取って非上場化するMBOの実施を表明した。これに対し、同業のブラザー工業が異を唱え、ローランド側の同意を得ないTOBを打ち出した。ブラザー側はローランドによるMBOよりも高値でのTOBを提案し、ローランド側はそれを上回る買い取り価格を提示した。だが、ブラザー側はさらにTOB価格を引き上げることはせず、最終的にローランドのMBOが成立した。
また、アマゾンの配送業務を手がけるAZ-COM丸和ホールディングス(HD)は3月、物流同業で東証プライム市場に上場するC&Fロジホールディングスに対し、同意を得ないままでのTOBを表明した。両社は以前から協業について協議を重ねていたが、AZ側がC&Fの子会社化を提案し、話し合いがつかない中でのTOBだった。これに対し、C&F側は佐川急便を傘下に置くSGホールディングス(HD)などをホワイトナイトとする買収を模索。SGはAZが提示した買収額を2倍近く上回るような高値での買収を提案したため、C&FはSGの提案を支持し、AZのTOBは不成立となった。最終的にSGによるC&FへのTOBが成立し、SGグループ入りした。
M&A仲介のレコフデータによると、被買収企業の同意を得ないでM&Aを提案する事例は、この5年で確実に増えてきている。昨年夏に経産省がまとめた買収指針がそうした傾向を後押ししている格好だ。さらに東証が上場企業に対して資本コスト経営を意識した経営を求めるなど、経営者に意識改革を促していることも大きい。さらに日本では同じ業種の中で競合企業が多い過当競争が問題視されており、M&Aを通じて業界再編が進み、経営資源の効率的な活用や配分が広がれば、日本企業の経営改革にもつながる。こうした点からも敵対的な買収と呼ばれてタブー視されてきた同意なき買収が日本でも広がり始めたことは、M&Aに関する潮目が確実に変わってきている証左といえる。
先の通常国会ではTOBのルールを見直す改正金融商品取引法も成立した。これまで株主総会で特別決議を否決できる3分の1(約33%)超の株式を買い付ける際にはTOBの実施を義務づけていたが、これを30%超に引き下げた。実際には3分の1以下でも拒否権を得られるケースが大半のため、実態に近づけた。TOBルールの見直しは17年ぶりだ。金融庁によると、東証上場企業の議決権行使比率の平均は約6割にとどまっており、議決権の30%を保有していれば、大半の特別決議を否決できているという。また、TOBは市場外での取引を対象とし、取引所経由の市場内取引は対象外とされていたが、今回の法改正で市場を通じて株式を大量に買い付ける取引もTOBの対象に加えた。市場ルールも不断に見直していく必要がある。
井伊重之Shigeyuki Ii
産経新聞客員論説委員、経済ジャーナリスト
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。