今年9月に投開票された自民党総裁選は、国民的な人気が高い小泉進次郎元環境相が想定外の失速を見せ、上位2者による決戦投票にも残ることができずに敗れた。その小泉氏は総裁選への出馬表明で「日本経済のダイナミズムを取り戻すには、労働市場改革が不可欠だ。その本丸である解雇規制の見直しに挑みたい」と宣言した。だが、この公約は他候補から集中的な攻撃を受け、本人も途中から釈明に追われるようになった。これが最大の敗因といえるだろう。
懸念されるのは、解雇規制の緩和を始めとした労働市場改革が小泉氏の敗退で宙に浮いてしまうことだ。産業界における雇用の流動性を確保し、衰退産業から成長産業への円滑な人材移動を促すには労働市場改革が欠かせない。とくに全国的に人手不足が深刻化し、今後も人口減少が続く中で、その克服も急務となっている。解雇規制の緩和を含めた労働市場改革の推進は、日本経済の活性化にとって待ったなしの課題だ。
自民党総裁選に初めて出馬した小泉氏は、父親の純一郎元首相の代名詞となった「聖域なき構造改革」を踏襲し、その筆頭として解雇規制の緩和を掲げた。「賃上げや人手不足、正規・非正規格差を同時に解決するため、労働市場改革の本丸である解雇規制を見直す」と父親譲りの歯切れのよいワンフレーズで表明した。ただ、労働市場改革の必要性は理解できるものの、その本丸が果たして解雇規制の緩和なのかという疑問は、多くの人が持ったのではないか。
何より小泉氏の主張は、解雇規制の緩和の中に「解雇の金銭解決」と「整理解雇の4要件の法定化」が混在し、その論点が明確に示されなかった。同氏は「解雇規制は今まで何十年も議論されてきた。現在の解雇規制は、昭和の高度成長期に確立した裁判所の判例を労働法に明記したもので、大企業には解雇を容易に許さず、企業の中で配置転換を促進してきた」と指摘した。前段の「何十年も議論されてきた」というのは解雇の金銭解雇だが、後段の「裁判所の判例を労働法に明記した」というのは整理解雇の4要件を指している。これらを一緒に論じているために論点が極めて分かり難いだけでなく、事実誤認も含まれていた。
解雇の金銭解決を巡っては、政府の規制改革会議が導入を提言し、安倍晋三政権の成長戦略にも検討事項として盛り込まれた。その後、厚生労働省の審議会で長年にわたって議論され、2022年に報告書として一応まとめられた。だが、労使双方から反発の声が出るなど最終的な結論は明示されず、現在まで実質的に先送りが続いている。労働組合側が「安易なリストラにつながる」として反発するのは当然だが、経営側も解雇の金銭水準を巡って大手企業と中小企業で意見が割れるなど、具体的な結論には至っていない。小泉氏は労使双方が納得していない金銭解雇について、議論をどのようにまとめるつもりだったのだろう。
さらに難解なのは整理解雇の4要件を巡る議論である。4要件とは①人員削減の必要性②解雇回避努力の履行③対象者選定の合理性④手続きの妥当性―だ。小泉氏は法律に明記したというが、実際には法定されておらず、あくまでも判例の積み重ねである。この4要件を法律に明記し、その上で②の解雇回避努力を緩和し、その代わりに企業に対してリスキリング(学び直し)や再就職支援などを義務付けることで、「人員整理を認められやすくする」というのが小泉氏の掲げた解雇規制の緩和なのだろう。
しかし、この4要件を法律に明記するには、整理解雇を法律で位置付け、その濫用防止を規定した上で解雇を認める際の手続きを整備する必要がある。すでに労働契約法では「客観的に合理性のない理由を欠いた解雇は無効」と定められており、小泉氏が訴えた「1年以内に法改正する」というのは、現実には極めて困難だ。こうした点を踏まえれば、小泉氏が解雇規制の緩和を巡る論点をどこまで理解していたのかは疑問だ。不透明な点が多い解雇規制の緩和に対し、ほかの候補から一斉に疑問の声が上がり、公開討論では小泉氏に質問が集中した。そのたびに小泉氏は説明や釈明に追われて支持率の急低下を招いた。
最近の労働裁判では、厳密に整理解雇の4要件を満たさない場合でも個別企業の経営事情などを総合的に判断し、会社側による解雇を認める判例も増えている。政府関係者は「専門的な職種に就いていれば、業績の悪化でその仕事がなくなる場合、解雇を認める傾向が強まっている」と指摘する。ここにきて政府も職務内容を明確化し、成果型報酬を支払う「ジョブ型雇用」の普及に力を入れている。労組が反対する整理解雇要件を法律に明記し、その規制緩和を図るよりも、ジョブ型雇用を本格的に導入した方が、結果的に整理解雇の要件緩和につながるはずだ。さらにジョブ型雇用が普及すれば、多様な働き方を確保しながら雇用の流動化が進み、賃金水準の引き上げにも寄与する。労働者の理解も得やすいのではないか。
時代の変化に合わせて雇用ルールを見直すのは当然だ。金銭解雇に対しては思考停止を脱し、雇用保険を活用するなどして労働者を保護する仕組みも検討すべきだ。具体化に向けた議論を早期に始めるべきだ。その上で産業界における人材の流動化を促すためには、企業や労組を中心に教育訓練を実施するだけでなく、成果に応じて報酬を支払う制度を社会的な基盤として確立する必要がある。そこでは労働者本人の意識改革も問われることになる。小泉氏が問題提起した解雇規制の緩和を契機にして、我が国でも建設的な議論が進むことを期待したい。
井伊重之Shigeyuki Ii
産経新聞客員論説委員、経済ジャーナリスト
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。