行政のデジタル化を規制改革の起爆剤に

2020年12月10日

井伊重之(産経新聞論説委員)
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.4 - 2020年8月号 掲載 ]

社会の効率化とサービスの向上を

世界的に猛威を振るう新型コロナウイルスの感染拡大で、デジタル化の推進やテレワーク(在宅勤務)の拡大、人との接触をなるべく減らすなどの「新たな常態」(ニューノーマル)に向き合う必要性が指摘されている。とくに国民に一律10万円を支給する特別定額給付金をめぐり、マイナンバーカードを使ったオンライン申請で大きな混乱が生じたように、日本のデジタル化の遅れは極めて深刻である。今後のデジタル化を規制改革の起爆剤に位置付け、急速な少子高齢化を迎える日本の経済・社会の活性化につなげる機会にしなければならない。

特別定額給付金をめぐる大混乱

特別定額給付金をめぐる混乱は、目を覆うばかりだった。政府・自民党は当初、コロナ禍で困窮した世帯に限定して30万円を給付することを決め、その予算案を閣議決定した。だが、連立内閣を構成する公明党から異論が噴出し、国民1人に一律10万円を配る定額給付に変更。政府が一度決めた予算案を組み替える事態となった。

ある政府関係者は「財務省が設定した困窮世帯の基準は、一定期間内に収入が半減するなど分かりにくい内容だった。あのままでは支給対象を判断する市町村の窓口が混乱し、給付にも時間を要するとみた公明党の判断は正しかった」と打ち明ける。そうした懸念があるのなら本来、支給基準を改めるべきだったが、政府・自民党にはそうした現場の声が伝わっていなかった。

特別定額給付金の混乱は、こうした政府・与党の意思決定だけではない。いち早く国民に届けるために一律10万円の定額給付に変えたが、その支給でも混乱が広がった。政府が定めたマイナンバーカードによるオンライン申請では、申請者が書き込んだ世帯情報や口座情報をすべて手作業で確認することになり、郵送による申請よりも支給までに時間がかかる事態となった。都市部の自治体では郵送による申請も膨大な書類が殺到したため、首都圏の政令指定都市などでは6月末の段階でも給付金の支給率が数%にとどまる自治体が相次いだ。

これに対し、欧米諸国で迅速な現金給付が実現したのは、社会保障と税制が連動して個人の銀行口座まで一括管理しているからだ。こうした住民情報がコンピューターで紐付けされており、オンラインで給付を申請すれば、2週間で現金が銀行口座に振り込まれる仕組みとなっている。この欧米との圧倒的な差は日本が行政のデジタル化を怠ってきたツケであり、今後の社会インフラがいまだに整備されていない証左でもある。今回の新型コロナウイルスは、日本が抱える厳しい現実を浮き彫りにした。

img201110_ii01.jpg

デジタル化の遅れの影響はこれだけではない。テレワークが広がる中でも紙文書に対する決済印が必要となり、出勤しなければならない事例も相次いだ。とくに行政に対する申請書類には会社印が求められ、オンラインによる業務処理の遅れが目立った。新型コロナウイルスに感染した人の追跡調査でも、保健所の職員は電話で連絡を取り、その情報を紙で記録していた。これでは全国規模で感染情報を共有することなどできない。

こうした反省を踏まえ、政府は今後1年の経済財政運営の基本方針(骨太の方針)で、社会や行政のデジタル化を推進することを決めた。対面審査や押印を求める規制や慣行を抜本的に見直し、社会システムのIT(情報通信)化を進める。岩盤規制の象徴とされるオンライン診療の解禁は盛り込まれなかったが、政府として本格的なデジタルガバメント(電子政府)を目指す姿勢を打ち出した。

行政のデジタル化の推進は、単に手続きを効率化するだけではない。新規の民間サービスの創出を促すことで経済の活性化につながり、行政サービスの向上も期待できる。欧米のように行政が個人の所得を把握できるようになれば、社会保障と税制を一体的に改革し、生活保護や年金など社会保障給付の不正受給や脱税を効率的に防止する体制も構築できる。社会システムの効率化が進むのだ。

マイナンバーを社会のインフラに

そのためにもマイナンバーと銀行口座を紐付けることは不可欠だ。それが実現すれば、今回のような定額給付金や災害時の復旧支援金などを迅速に支給することも可能だ。現在の法律ではマイナンバーは、社会保障と税制、災害対応の3つに利用を限定している。来年からは健康保険証としても利用できるようになるが、銀行口座の情報は連結されていない。総務省では1人1口座に限ってマイナンバーにひも付けする法改正を検討しているが、その実現は数年後になる見通しだ。

そもそもマイナンバーカードの普及が遅れており、4月段階でも2割に満たない。これでは社会のインフラとして活用することは困難だ。普及遅れの最大の要因は、国民がマイナンバーカードを保有する利便性を実感できていないからだろう。マイナンバーは社会保障と税の一体改革に合わせて導入されたが、使い勝手は良くない。最近になってマイナンバーカードを通じた納税も可能になったが、カードリーダーによる読み取りが必要など利用する側の立場に立った設計にはなっていない。政府は今後、マイナンバーカードを通じたキャッシュレス決済のポイント還元策で普及を進めたい考えだが、カードの個人認証機能を使って国民がどこまで行政サービスを受けられるようにするかが、今後の社会インフラとしての課題となる。

政府の経済財政諮問会議の民間議員は、このマイナンバーカードについて「新しいシステムを導入することが目的化し、国民が安心して簡単に利用する視点で構築されていなかった」と厳しく批判している。これは民間企業のコーポレートガバナンス(企業統治)についても同じである。ガバナンスコードの導入が目的化し、ただコードで求められる形に準拠しても企業価値の向上は見込めないからだ。企業が各種のステークホルダーに応えるためにインフラがガバナンスコードであり、それを生かして稼ぐ力を高め、企業価値を向上させることが最終的な目的である。

行政のデジタル化も利用者の目線に立った行政サービスを提供することが最終的な目的であり、その実現を阻む規制は徹底して排除することが欠かせない。

これまでの記事[ OPINION ]