危機管理としての 財政健全化

2021年10月10日

井伊重之(産経新聞論説委員)

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.7 - 2021年8月号 掲載 ]

ポストコロナに向け早期に新たな目標を策定せよ

政府が経済財政の指針「骨太の方針」を閣議決定した。毎年の恒例行事だが、昨年から今年にかけて新型コロナウイルス対策で財政支出が膨張したこともあり、政府内では「2025年度までに基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化する」という財政健全化の目標年次が先送りされるのではないかとの見方が広がっていた。結果として今回の骨太方針で目標年次の見直しはされなかったが、「今年度内に感染症による経済財政への影響を検証する」との一文が盛り込まれた。これは見直しの先送りといえる。

もはや財政健全化目標の達成は困難である。コロナ禍に襲われる前でも達成は危うかったが、コロナ対応に伴う財政需要が拡大して財政健全化の道は遠のいた。さらに今年9月までには衆院の解散・総選挙が行なわれる。政府・与党は総選挙向けに新たな経済対策を打ち出し、財源確保のために補正予算を編成することになるだろう。そこでは再びバラマキ政策が繰り出されるのは確実だ。ポストコロナ時代をにらんで財政規律を取り戻すためにも、早期に新たな財政健全化目標を策定する必要がある。財政健全化は国家としての危機管理と位置付けるべきだ。

今回の骨太方針では、新型コロナの克服とポストコロナの経済社会ビジョンに一章が割かれた。将来のあるべき経済社会に向けた構造改革をどのように進めるかについて、経済財政諮問会議(議長・菅義偉首相)の下に専門調査会に設けて検討するとした。そのうえで25年度の基礎的財政収支の黒字化目標は堅持するが、年度内に財政検証を実施して目標年次を再確認するとした。

基礎的財政収支は財政の健全性を示す指標の1つで、社会保障や公共事業などの政策的経費をどのくらい税収で賄えるかを示すものだ。現在は足りない財源を大量の国債発行で穴埋めしているが、これを25年度までに原則として税収の範囲で政策的経費を賄うというのが財政健全化目標である。だが、財政の現実は大変厳しい。ここ数年、補正予算を含めた予算は100兆円を上回る水準が続いている。内閣府の試算によると、21年度のPB赤字はコロナ禍に伴う大規模な財政出動の影響もあって40兆円を超える。

それでもコロナ禍で主要各国では景気を下支えするために財政支出の増大が続く中で、政府・与党内には当面の歳出増はやむを得ないとの意見が圧倒的だ。財政規律を重視する自民党財政再建推進本部でも今回の骨太方針の策定に向けた提言で、基礎的財政収支の黒字化の達成時期をめぐり、政府が掲げる「25年度」を明示しなかった。野党の中には景気対策として、10%の消費税率を一時的に引き下げることを求める動きさえある。総選挙を控えて財政出動を求める声が与野党から強まる中で、25年度の黒字化目標は風前の灯火といえる。

財政支出の増大は、コロナ禍ばかりによるのではない。政府が「国難」と位置付ける少子高齢化の進展により、社会保障費も増加を続けている。一般会計予算による社会保障向けの財政支出は年間30兆円を超えるが、年金や医療、介護などの社会保険料も現役世代に重くのしかかる。さらに今後は脱炭素やデジタル化などの社会変革費用も待ち受ける。炭素税導入の検討も始まっており、国民負担の増加は避けられない情勢にある。

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すでに過去の財政支出の拡大により、国と地方が抱える長期債務残高はGDPの2倍に当たる1200兆円を超える。これは主要先進国の中で突出した水準にある。今は日銀が国債発行額の半分を引き受ける構図になっているが、それでも金利はきわめて低い水準にとどまっており、ある意味でバブルの宴の中にいるといえる。国民の間には財政危機に対する意識は感じられない。そんな時だからこそ国家としての危機管理が為政者には問われているのだ。

日本にとってとくに懸念されるのは大規模災害だ。新型コロナでも新たな感染症という自然の脅威を見せつけられたが、災害立国・日本では今後も大地震の発生が予想されている。政府の地震調査委員会によると、静岡県の駿河湾から日向灘にかけての南海トラフ沿いでは、マグネチュード8~9級の巨大地震が今後30年以内に70~80%の確率で起きると予測されている。建物や資産に対する直接的な被害だけでも170兆円にのぼる損害が見込まれる。約20兆円だった東日本大震災の直接的な被害とは比較にならないほどその被害は甚大だ。

また、南関東を震源とする首都直下地震も、今後30年以内には70%程度の確率で発生するとされている。震源の範囲は比較的狭いが、首都を襲う大地震によって建物や資産の直接的な被害だけで47兆円、サプライチェーンの打撃などを含めた生産・サービスの低下で95兆円の損害が予想されている。こうした大規模災害の発生時には緊急の財政支出が欠かせない。

財政健全化の取り組みとはそうした新たな国家的な危機に耐えるため、財政に余力を確保しておく危機管理なのである。政府の健全化目標の達成がコロナ禍も加わって達成が難しくなった以上、次の新たな危機に備えるためにも新たな健全化目標を早急に策定しなければならない時期にある。例えばコロナ禍に伴う関連予算を東日本大震災の時のように別会計として処理し、少子高齢化など社会的な費用とは異なる形で計上するなどの財政的な工夫も求められる。

日米欧の主要7カ国(G7)は、世界で進んできた法人税の引き下げ競争に歯止めをかけるため、法人税の最低税率を15%とすることで合意した。巨大IT企業を含む国際企業が租税回避地(タックスヘイブン)を通じた税負担の軽減を進める中で、過度な課税逃れを阻止するのが狙いだ。各国では新型コロナ対策で財政支出が拡大した結果、財政事情が急速に悪化しており、法人税率を引き上げて税収を確保する動きもある。

日本ではまだ法人税引き上げの動きは見られないが、財政立て直しに向けて新たな健全化目標の設定は不可欠だ。そこでは国民負担が重くなるばかりの社会保障費の効率化も避けて通れない。これこそがまさに骨太の改革であり、経済界も政府に対してその実行を強く働きかけてほしい。

井伊重之Shigeyuki Ii
産経新聞論説委員
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。

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