持続性が問われる「資本主義」

2022年1月10日

井伊重之(産経新聞論説委員)

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.8 - 2021年12月号 掲載 ]

岸田首相が模索する新たな姿

岸田文雄首相が経済政策の柱として「新しい資本主義」を打ち出した。成長と分配の好循環を実現し、株主資本主義とは異なる資本主義の新たな姿を目指すという。国会の所信表明演説でも「企業が長期的な視点に立って、株主だけでなく、従業員も取引先も恩恵を受けられる『三方良し』の経営を行なうことが重要だ」と訴えた。

先進国ではここ数年、資本主義のあり方が問い直されている。米国の経営者団体が株式会社の目的を再定義し、株主至上主義を見直して様々なステークホルダー(利害関係者)の存在を重視する「マルチ・ステークホルダー資本主義」の必要性を唱えた。世界的なコロナ禍で経済格差は一段と広がりつつある。次代の成長を見据えて「持続可能な資本主義」を構築する必要があるが、それが改革を伴わない分配にとどまれば、経済のパイは拡大せず、日本経済の先行きも危うい。

コロナ禍で深刻な打撃を受けた世界では、リベラル(自由主義)の復活が鮮明だ。米国では格差是正を掲げた民主党のバイデン大統領が誕生し、ドイツの総選挙ではショルツ氏率いる中道左派の社会民主党が第1党に躍進した。そして日本ではリベラル派が多いとされる自民党の宏池会を率いる岸田氏が自民党の新総裁、そして第100代の首相に就いた。宏池会が首相を輩出したのは宮沢喜一氏以来、約30年ぶりのことだという。

その意味で岸田首相が新たな資本主義を提唱したのは、歴史的な必然ともいえる。とくに「成長と分配の好循環」は、岸田首相が目指す新たな資本主義の柱と位置付けられている。コロナ禍で傷ついた国民の生活基盤を回復するには、低所得者や非正規社員らを中心に公的な分配を重点実施することは重要だ。だが、それは一時的な対症療法に過ぎない。公的な分配政策を継続するのは、厳しい財政事情もあって難しい。分配の原資となる経済のパイを民需主導で広げなければならない。そのためにも企業統治改革を進め、企業の自律的な成長を促す必要がある。

岸田首相が掲げた政策で気になるのが、新自由主義からの脱却という視点である。安倍晋三政権が進めたアベノミクスは、大胆な金融緩和と機動的な財政出動、それに民間投資を喚起する成長戦略を「3本の矢」と位置付けた。その成長戦略は規制改革を通じて民間の創意工夫を促す政策だ。少なくともこの処方箋は間違ってはいない。規制改革をめぐる副作用に留意する必要はあるものの、規制改革を新自由主義として一律に排除することは、日本経済の成長のダイナミズムを奪いかねない。そもそも安倍政権下でも本格的な規制改革が進まなかったことは、政府・与党が一番承知しているだろう。

ただ、アベノミクスが当初目指したトリクルダウンは実現しなかった。金融緩和による円安を通じて日本企業の輸出は伸びたが、そこで生まれた収益は従業員に適正に配分されず、実質賃金が伸びない中で企業は内部留保を貯め込む結果となった。企業収益の向上や企業統治改革の進展で株価も上がったが、それが経済成長の果実として従業員にまで十分に回らなかった問題は認識しておかねばならない。そこで改めて問われるのが「公正な所得再分配」といえる。

安倍政権では経済界、労働界と組んで春闘で賃上げを目指した。「官製春闘」とも揶揄されたが、労使交渉を通じて少なくとも2%程度の賃上げは6年間にわたって実現された。ただ、それは正社員を中心とする従業員に配分され、非正規社員への還元は限定的だった。しかしながら政府が経済界に対し、賃上げを求めるのは限界がある。賃上げや従業員を増やした企業に減税措置を講じることはできても、収益以上の賃上げを無理矢理に促すことはできない。やはり硬直的な雇用慣行を是正し、企業が従業員への利益配分を柔軟化できるような労働市場改革が欠かせない。

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何より経済のパイを広げるには、企業が生産性を高められるような改革が必要だ。日本経済の潜在成長率を向上させ、企業が利益を増やす取り組みを進めなければ、分配の原資を稼ぎ出すことはできない。そこではアベノミクスで示した成長戦略の実現が問われる。道半ばで終わった成長戦略の目的を明確化し、よりターゲットを絞った形の取り組みが重要となる。企業が貯め込んだ豊富な資金を積極的にM&A(合併・買収)やイノベーション(技術革新)などに充てるような投資優遇なども有効だろう。なるべく具体的な成果を打ち出せるようなアジェンダを設定したい。

今回のコロナ禍で浮き彫りになったのは、硬直的な医療制度である。感染者で病床が一杯になり、多くの患者が自宅療養を余儀なくされた。未知のウイルスとはいえ、患者が病院に入れずに自宅で相次ぎ亡くなる事態を招いた医療制度の罪は大きい。それは国民皆医療の崩壊でもある。ワクチンや治療薬の早期実用化を促す制度を確立し、医療従事者や医療用ベッドの確保が可能になる制度改革が不可欠だ。菅義偉政権はコロナ対策をめぐって退陣したが、その失敗は政府だけのせいではあるまい。政府はコロナ病床の拡大を目指したが、民間経営を理由に行政の指揮権が及ばない病院が全体の8割を占める。オンライン診療などの規制改革を徹底して排除してきた医療界の責任も重大である。

岸田首相が唱えた新たな資本主義の実現に向け、政府は会議を発足させた。そこでは経団連や連合などの労使団体に加え、経営者や各界の有識者らがメンバーとして選出された。年内にも中間報告をまとめ、来年半ばには最終報告をまとめ、政府の「骨太方針」に反映させるという。政府関係者は「衆院選前に急いで発足させる必要があった」と指摘するが、今後の日本のあり方を問い直す重要な会議である。有意義な議論に期待したい。

日本は今後、人類が今まで経験したことのない急速な少子高齢化時代に突入する。そこでは人口の流出入をめぐって都市と地方の格差も一段と顕在化するだろう。地球規模の課題である温室効果ガスの排出削減は、一方で我々の暮らしや産業に厳しいエネルギー転換を強いることにもなる。こうした難題にも取り組む会議であってほしい。

井伊重之Shigeyuki Ii
産経新聞論説委員
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。

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