近年、人的資本経営の議論が盛んである。では、人的資本経営とは何か。経済産業省のサイトでは、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」と定義している。
「(人材の)価値を最大限に引き出す」にはどうしたらよいだろうか。「(人材の)価値を最大限に引き出す」とは、「(人材に)その能力を最大限に発揮せしめる」と言い換えてよいが、人はどういうときに労働を通じてその能力を最大限に発揮しようとするだろうか。
「能力を最大限に発揮する」ことは少なからず能動的な行為であり、そのためには当該主体(従業員)に何らかの「刺激」が加わる必要がある。この「刺激」の一つとして、従業員が抱える不安への対処を助けることで生じる「安心」をあげることができる。この「安心」について、以下、敷衍してみたい。
従業員の「不安」としてもっとも普遍的なものは、「老後の不安」だろう。企業は法人だが従業員は自然人であるので、誰でも必ず死ぬし、死の前には老後の生活(の不安)がある。従業員の老後の不安を軽減するため、多くの企業は退職給付の制度を有している。これが、「老後の安心」につながれば、従業員が「能力を最大限に発揮する」条件のうちの一つが整ったこととなる。
ところが、多くの企業でこのメカニズムの波及経路が切れてしまっている。経営者が株主の負担で退職給付の制度を整えても、その内容が従業員に伝わっていないことが珍しくない。定年退職の日に手厚い退職給付を有する会社であることを知って、それまではなかった愛社精神が生まれるのでは遅い。
退職給付の内容を従業員に周知するうえで、大きな障害がある。それは、人間の性(さが)とも言うべき近視眼性である。近視眼性とは、重要ではあっても遠くにあるものを軽視してしまう傾向である。若い従業員は、老後の心配の前にほかの多くのことを心配せねばならない。こういう従業員の心の中に、自分の老後への関心を定着させることは容易でない。
しかし、近年、政策的な追い風が吹いている。iDeCoやNISAが大胆に拡充されている。どちらも税制優遇の制度であり、その効果(非課税の恩恵)は老後を待たずにすぐに生じる(可視化される)から、近視眼性の克服が相対的に容易になっている。すなわち、自社の退職給付の制度をiDeCoやNISAの使い方と融合させて説明し、従業員の「安心」に繋がるような、より包括的な情報を従業員に提供できる企業は、上述の切れた波及経路の修復に成功するかもしれない。
こういう環境下で、企業経営上の留意点が一つある。確定拠出年金(以下、「DC」という)の運営に十分な注意が必要になっていることだ。 DCにおいて、多くの企業(事業主)は、信託銀行などに運用ラインナップ選定その他の運営管理業務を委託し、従業員はその運用ラインナップの中から自分の運用対象を選択する。人事部などのDC担当部署では、金融商品に関する知識が乏しい場合は特に、「運営管理機関に任せてあるから、自分はあまり関係がない」という意識が生じ易い。
ところが、DC法は、運営管理機関に委託しても、DCの実施主体はあくまで事業主であって、運営主体としての責任が事業主にあることを定めている。
また、厚労省のDC運営に関する解釈通知(「確定拠出年金制度について」〈平成13年8月21日年発第213号〉)を見ると、事業主はかなり重い「プロセス責任」を負っていることが明らかである。例えば、運用ラインナップを構築する際には、その時点で利用可能な金融商品(投資信託など)を広く調べて、従業員の老後資産形成に最適なものとせねばならない。間違っても、メインバンクへの配慮・忖度からそのグループに運営管理業務を委託し、できあがった運用ラインナップが当該グループの商品が不自然に高い割合を占めるものとなってはならない。
近年、投資信託の運用コストは、金融庁の関心が高いこともあって低下傾向にある。投資信託の運用コストの低下は、広く報道された公知の事実であるから、事業主が「知りませんでした」とは決して言えない。では、将来、定年退職する従業員がこう言ってきたらどうだろうか。
私は、毎年1単位の運用を、運用コスト控除後のリターンが3%の投資信託で行った結果、47.575単位(年金終価係数により得られる値)の資産を有しています。しかし、30年前、ほぼ同じ運用を行う別の投資信託でコストが0.3%だけ低いものは存在していたので、運用ラインナップにこちらを入れておいてくれれば、運用コスト控除後のリターンは3%ではなく3.3%であったはずです。その場合、私の資産は49.956単位(同)になっていました。この差をどうしてくれるのですか。
困ったことに、こういう従業員に「わかった、差を補填するよ」と経営者が言おうとしても、そうする仕組みがDCの制度の中にはない。結局、あちこちで訴訟になるのだろうか。米国では、多くの訴訟(クラスアクション)が既に起き、多額の和解金に至っている事例がいくつもある。
確定給付年金(DB)は、企業に財務的な負担を課すが、仮に運用リターンが低くて積み不足が生じても、それを株主の負担で補う仕組みが制度の中に用意されているので、対処の道筋は見えている。
こうなると、DC運営が適切でない場合、労使関係の悪化の火種になったり従業員の経営者への信頼感を損なったりする可能性はありそうだ。これは、人的資本経営の目的と背馳し、中長期的な企業価値をほぼ間違いなく損なうだろう。すなわち、DC運営は、人的資本経営上の留意点の一つではないだろうか。
玉木伸介Nobusuke Tamaki
大妻女子大短期大学部教授
1979年東京大学経済学部卒業後、日本銀行入行。企画局、情報サービス局広報課長等を経て、2001年総合研究開発機構(NIRA)に出向、2009年年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)出向、2011年4月より現職。社会保障審議会「年金部会」部会長代理、同「資金運用部会」委員、国家公務員共済組合連合会資産運用委員会委員、独立行政法人勤労者退職金共済機構資産運用委員会委員長代理など。1983年ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンスMSc. in Economics(経済学修士)。