人材育成を経営戦略に生かせ

2024年4月23日

井伊重之(産経新聞客員論説委員、経済ジャーナリスト)

[ 雑誌「コーポレートガバナンス」Vol.14 - 2023年12月号 掲載 ]

情報開示が義務付けられた「人的資本」

戦国武将の武田信玄が「人は石垣、人は堀、人は城」と詠んだのは有名だ。自らの領地を守って戦国乱世を生き抜くためには、何よりも領主を支える人材が重要であると説いた。経営の神様と呼ばれた松下幸之助も「事業は人なり」と語り、経営の根幹は人材であると喝破した。

その人材が改めて注目されている。上場会社などを対象にして、2023年3月期決算から「人的資本」に関する情報開示が義務付けられたからだ。非財務情報の情報開示はここ数年の大きな流れだが、企業の成長を担う専門的な人材をどのように育成するのかという正解が見えず、情報開示にあたる担当者からは戸惑いの声も上がっている。

人材の高度化に向けてリスキリング(学び直し)のあり方も問われている。とくに雇用の流動性に乏しい日本では、経営そのものを客観的・実践的に学習する場が少なく、教える側の人材も心許ない。リスキリングは執行を務める経営幹部だけでなく、経営の監督にあたる社外取締役にも求められている。学び直しを含めて人材教育の仕組みづくりから再構築する必要がありそうだ。 23年3月期以降の有価証券報告書には、サステナビリティ(持続可能性)に関する記載項目が新設された。コーポレートガバナンス(企業統治)の体制や経営リスクを評価・管理するプロセスなどと並び、人材育成や働きやすい社内環境整備の方針などの人的資本に関する情報の開示について、有報発行企業は義務付けられた。

そこでは男女の賃金格差と女性管理職比率、男性の育児休業取得率の3指標の開示が制度改革の柱と位置付けられている。すでに女性活躍推進法などで公表が義務化されている一定以上の大手企業の場合、有価証券報告書への記載も求められるようになった。3指標の開示は着実に進み、大手企業では9割近くが開示済みとなっているが、まだ単体に限定されている場合がほとんどだ。連結決算のグループ企業における情報開示は2割以下にとどまっている。

何より問題なのは、そうした人的資本に関する3指標の情報開示が具体的な経営戦略と結び付いて説明されていない点だ。「人的資本が経営戦略にとって重要」としているものの、その戦略を実現させるための具体的な人材像を提示している企業は少ないのが現状だ。人的資本は新たな開示項目として加わったばかりなだけに、企業側も具体的な記載内容は手探り状態にあるようだが、そもそも日本企業には職務内容を明確に定義し、その専門性に基づいて働く「ジョブ型雇用」が普及していない。職務内容や専門性が規定されていない曖昧な働き方が中心なだけに、経営戦略を実現させる具体的な人材像についての説明が不十分なのは当然といえるだろう。

人的資本に関する情報開示をめぐっては、人権に関する記載も重要だ。人権保護では米国が中国による人権抑圧を懸念し、新疆ウイグル自治区でつくられた太陽光パネル製品などを法律で輸入禁止にした。こうした事態を受けて日本政府も22年9月に「人権指針」を策定した。取引先を含めたサプライチェーン(供給網)で人権侵害がないか確認し、予防や改善に取り組む手順を示したものだ。サプライチェーンにおける強制労働や児童労働、外国人技能実習生に対する差別的な待遇などの問題が提起されている。

ただ、欧米諸国は人的資本や人権をめぐる情報開示で先行している。米国では3年前に必要な人材の確保や具体的な育成策などの情報開示を義務化したほか、欧州連合(EU)でも従業員に対して賃金が公正に支払われているかのほか、各種休暇の取得状況や労働条件が団体交渉で決まる労働者の割合などの開示を求めている。労使協議の対象となっていない従業員の割合を明示することで、適正な評価を受けていない可能性がある従業員の規模感をあぶり出す仕組みだという。とくに欧州では移民の労働条件の悪化が指摘されており、働く人全体の待遇改善を促すのが目的だ。欧米では人的資本経営の基礎として人権をめぐる意識が確実に高まっている。日本企業も強く認識しておく必要があるだろう。

一方で人的資本経営をめぐっては、社外取締役の資質も問われている。最近では社外取締役の選任に関し、「スキル・マトリックス」を開示してその資質の判断基準と位置付ける上場企業も増えている。そこでは経営経験や国際性、財務・会計などの専門性など具体的な項目が示されているが、その資質をどのような評価軸で判断しているかは不透明だ。日本企業も世界的なデジタルトランスフォーメーション(DX)やグリーントランスフォーメーション(GX)などの対応を迫られている。それらを総合的に判断する能力が社外取締役にも求められている。

経済産業省のコーポレート・ガバナンス・システム研究会は23年6月、社外取締役の資質向上に向け、研修コンテンツの充実を今後のガバナンス経営に必要だとする報告をまとめた。岸田文雄政権は「新しい資本主義」の一環として、従業員のリスキリングの推進を掲げているが、企業経営の一線から退いた元経営者らを社外取締役として招聘する場合、リスキリングのための研修が必要と指摘している。取締役会を監督する立場の社外取締役にとっても現代経営の課題を認識することが求められており、幅広い知識を身につけておくことは重要だ。そうした多様な研修機会を提供する場を設けることは、日本のガバナンス経営を確実に深化させることにもつながるだろう。

井伊重之Shigeyuki Ii
産経新聞客員論説委員、経済ジャーナリスト
コーポレートガバナンスに関する論考多数。政府の審議会委員なども歴任。

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